東大阪市鳥居町    鳥居自治会

200年後に大改修された一の鳥居

◎平成10年6月 クレーンによる解体工事       ◎柱の継ぎ目から見つかった守り鎌

                  室町時代:河内国河内郡平岡郷
                  江戸時代:河内郡出雲井村、豊浦村
、                  明治29年(1897):中河内郡枚岡村大字出雲井、大字豊浦
                  昭和14年(1939):中河内郡枚岡町大字出雲井、大字豊浦
                  昭和30年(1955):枚岡市出雲井町、豊浦町
                  昭和42年(1967):東大阪市鳥居町、鷹殿町
枚岡神社の一の鳥居は、今から209年前の享和2年(1802年)善根寺村の石工・彦兵衛により建立されました。一の鳥居は現在の本殿(文政9年(1826年)の建立)より古くこの鳥居から枚岡神社までが長い参道となっています。その昔、鳥居から東側に松の馬場と呼ばれていた大きな松の並木がありました。周囲には溜池と水田が広がり稲作が盛んでした。映画のロケ(鞍馬天狗)に使われたと聞いています。
 この一の鳥居も200年の経年変化で改修補正する必要があり、平成10年6月に解体され組み直されました。解体された柱の継ぎ目に守り鎌と思われる錆びた鎌の刃が数本見つかりました。
一の鳥居には、長さ11.6m牛蒡型の注連縄が綯われています。この綯い方は左綯い左本右末です。社殿から見て、左側が上位(左本)、参拝者から見て、右側が上位(右本)ですが多くの注連縄は右綯い右本左末の綯い方で、出雲大社など2割程度の神社に見られる少数派の注連縄です。shimenawa10月の秋郷祭で稚児行列の先頭を社殿から神輿が一の鳥居を通ります。このとき、神輿から見て左側が上位(左本)でなければなりません。したがって、一の鳥居の注連縄は左綯いの左本右末で、宮元の鳥居町の男衆で守られてきました。稲作が中心のその昔、秋の収穫を願って牛蒡型注連縄に〆の子(雨を表す)を取り付け多くあった溜池を潤せる十分な水を得ることを願っているものと思われます。

【注連縄に付いて昔からの言い伝え】         伝聞:東野 昇

 昔の人の言い伝えでは、享和二年に建立された「一の鳥居」の「島木」と「貫」の間には「額束(がくつか)」があり、この額束には『枚岡神社』と書かれた額が掛けられる予定でしたが何らかの手違いで額が架からないことが判明し、鳥居村の農家の方々により注連縄を架けるための四本の金具が取り付けられました。それ以来、鳥居村の農家では、その年に収穫した稲藁を持ち寄り旧歴の正月に間に合うように鳥居村の有志五〜六名で一日がかりで注連縄を作ることになったと記録に残っています。旧正月は、月の満ち欠けの一周期を基にした太陰暦で、現在の太陽暦との差から時代とともに少しずつ日がずれるため、新年を迎えて一月三日に行われるようになりました。 枚岡神社「一の鳥居」の宮元として、伝統ある注連縄架年行司を鳥居自治会の年行司として粛々と行ってきましたが、元旦には注連縄の架かった「一の鳥居」で新年を迎えたいとの意見が多く聞かれました。一月三日に行ってきた注連縄行司を初めての試みとして、平成二十四年十二月二十二日に行いました。 鳥居に新しい注連縄が架けられ、枚岡神社の宮司さんのお払いが終わると、新年の幸運を願い、宮司さんの「あっはっはー」に続いて全員でお笑い行司が行われました。 新しく注連縄が架け替えられた『一の鳥居』で新年を迎えるため、今後も、鳥居自治会の年中行事として、注連縄行司を一二月に行い、良き伝統、良き伝承は長く後世へ残し、伝承者の育成にも努力して行きます。    

◎鳥居前で行われる注連縄架け替の年行事

         鳥友会・鳥居自治会会員による早朝(8時)からの作業風景
準備 注連縄 ◎稲藁をさばいて準備                   ◎櫓を組んで左綯で綯い始め
注連縄 注連縄 ◎握力が相当必要                   ◎綯い終わった牛蒡型注連縄
注連縄 注連縄 ◎自治会長のお酒で清めます。この時点で跨ぐこと禁止です。 ◎鳥居に左本右末でかけます。
注連縄 注連縄 ◎完成しました。これからお払いの準備です。       ◎枚岡神社の神官による御祓

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