東大阪市鳥居町    鳥居自治会

鳥居自治会


鳥居自治会は東大阪市の東端・生駒山の裾野、生駒山の麓に位置し旧の河内地方と呼ばれる枚岡地区の中央に位置しています。 会員数は20地区約1200世帯で構成される自治会です。この地域は、東高野街道として京都から高野山への参詣道として用いられた街道がありました。 東高野街道は、生駒山を左手に枚岡中学校から一の鳥居を左に見て瓢箪山駅に向かう道が通っています。鳥居町には河内国一宮枚岡神社の第一の大鳥居が町の真中に立っています。秋のお祭り”秋郷祭”(毎年10月14,15日)には近隣の地域からの布団太鼓が一同に集まり大変な賑わいです。令和4年に2年間中止していた秋郷祭を3年ぶりに開催し、令和5年にはのべ20万人を超える方々にお越しいただけました。令和6年度からは、より沢山の方々にご来場いただけるよう日程の変更などを考えています。



令和6年度 鳥居自治会活動方針(抜粋)


・活発で開かれた魅力ある自治会の運営
・環境美化と防災の取り組みを積極的に行う
・高齢者事業の新たな拡充




令和5年の秋郷祭写真へ

鳥居自治会管理の枚岡神社一の鳥居(右側の灯篭は東大阪市最古の灯篭)

                 


枚岡神社の一の鳥居は、今から209年前の享和2年(1802年)善根寺村の石工・彦兵衛により建立されました。一の鳥居は現在の本殿(文政9年(1826年)の建立)より古くこの鳥居から枚岡神社までが長い参道となっています。その昔、鳥居から東側に松の馬場と呼ばれていた大きな松の並木がありました。周囲には溜池と水田が広がり稲作が盛んでした。映画のロケ(鞍馬天狗)に使われたと聞いています。
 この一の鳥居も200年の経年変化で改修補正する必要があり、平成10年6月に解体され組み直されました。解体された柱の継ぎ目に守り鎌と思われる錆びた鎌の刃が数本見つかりました。

200年後に大改修された一の鳥居


◎平成10年6月 クレーンによる解体工事       ◎柱の継ぎ目から見つかった守り鎌
一の鳥居には、長さ11.6m牛蒡型の注連縄が綯われています。この綯い方は左綯い左本右末です。社殿から見て、左側が上位(左本)、参拝者から見て、右側が上位(右本)ですが多くの注連縄は右綯い右本左末の綯い方で、出雲大社など2割程度の神社に見られる少数派の注連縄です。shimenawa10月の秋郷祭で稚児行列の先頭を社殿から神輿が一の鳥居を通ります。このとき、神輿から見て左側が上位(左本)でなければなりません。したがって、一の鳥居の注連縄は左綯いの左本右末で、宮元の鳥居町の男衆で守られてきました。稲作が中心のその昔、秋の収穫を願って牛蒡型注連縄に〆の子(雨を表す)を取り付け多くあった溜池を潤せる十分な水を得ることを願っているものと思われます。

【注連縄に付いて昔からの言い伝え】         伝聞:東野 昇

 
昔の人の言い伝えでは、享和二年に建立された「一の鳥居」の「島木」と「貫」の間には「額束(がくつか)」があり、この額束には『枚岡神社』と書かれた額が掛けられる予定でしたが何らかの手違いで額が架からないことが判明し、鳥居村の農家の方々により注連縄を架けるための四本の金具が取り付けられました。それ以来、鳥居村の農家では、その年に収穫した稲藁を持ち寄り旧歴の正月に間に合うように鳥居村の有志五〜六名で一日がかりで注連縄を作ることになったと記録に残っています。旧正月は、月の満ち欠けの一周期を基にした太陰暦で、現在の太陽暦との差から時代とともに少しずつ日がずれるため、新年を迎えて一月三日に行われるようになりました。 枚岡神社「一の鳥居」の宮元として、伝統ある注連縄架年行司を鳥居自治会の年行司として粛々と行ってきましたが、元旦には注連縄の架かった「一の鳥居」で新年を迎えたいとの意見が多く聞かれました。一月三日に行ってきた注連縄行司を初めての試みとして、平成二十四年十二月二十二日に行いました。 鳥居に新しい注連縄が架けられ、枚岡神社の宮司さんのお払いが終わると、新年の幸運を願い、宮司さんの「あっはっはー」に続いて全員でお笑い行司が行われました。 新しく注連縄が架け替えられた『一の鳥居』で新年を迎えるため、今後も、鳥居自治会の年中行事として、注連縄行司を一二月に行い、良き伝統、良き伝承は長く後世へ残し、伝承者の育成にも努力して行きます。